(訳:山本順一・図書館情報大学)
公正使用は、アメリカ著作権法の諸規定のうち、もっとも厄介で誤解されている規定の ひとつである。しかし、それは、著作権が保護された著作物について、著作権の制限を受 けつつも一定程度の利用を認めることにより、教育や調査研究を推進するためには、なく てはならないものである。また、公正使用の意味内容の不確かさはこれまで対立と緊張の タネでもあった。とくに、教育者や図書館員が電子的なアクセスを可能にするために既存 の著作物を一部改変するときや、出版社や著作者が公正使用により彼らがその著作物につ き市場取引をしたり使用許諾または売却にともない収入を得たりする権能を阻害するとし ばしば論ずるときがそうである。
公正使用とデジタル図書館をめぐる緊張と争いの多くは保護された著作物に対する効果 的な使用許諾により対応できるものと思われるが、有意義な使用許諾は利用者がもつ諸権 利を理解するところからはじめなければならない。また、そこで引き起こされる緊張の中 には、著作権法の改正により緩和されるものもあろう。近年、アメリカ著作権法は、主と してアメリカ法とアメリカが実際にビジネスを展開する他の諸国の法と“調和させる”と いう名分で、重要な多くの点が改正されている。しかしながら、他の諸国の法は、多くの 場合、公正使用ならびに第三者の著作物の利用や一部改変にかかるその他の諸権利を容認 していない。全体的に見れば、アメリカとその他のところの著作権は、デジタル図書館の 成否に関し、束縛する法の影響を受け、少なからず悪い方向に進みつつあるように思われ る。
私は、アメリカ合衆国憲法が他の国々にとっては憲法でないことは承知している。アメ リカ憲法体系が豊かに枝を広げており、私たちが我らが憲法を他の国々に対して、うやう やしくモデルを提供してきたといってもよいことを十分に認識している。しかも、アメリ カ合衆国憲法には、合衆国連邦議会に著作権法を制定する権限を与える規定が存在する。 その規定はただたんに議会に権限の根拠を賦与したことにとどまらない。また、その規定 は、学問や知識の進歩の促進という社会的目的を推進するように著作権法を制定しなけれ ばならないことを明らかにしている。
その憲法上の目標は、かなりの内省を要請するとともに、究極的には諸利益の比較考量 を命じている。著作権を通じて社会の発展を促進することは、新しい作品の創造とそれら の公表を推進するために著作権者の権利を確保するとともに、また他人により所有される 著作物を利用する公衆の権利に対するとてつもない緊張関係を防止するため、またそれら の上に新しい洞察と新しい著作物を付け加えるために一連の諸権利の回りに境界を画定し なければならない。したがって、私的諸権利の保全と公共的諸権利の賦与という著作権に 関する意義の競合は、しばしば著作権法に特有の対立と見られている。
これらの競合する目標の間で比較考量を達成することは、アメリカ著作権法の現在の発 展段階において、多大の混乱と大変な緊張の源となっている。デジタル図書館の発展に向 けて著作権法の適用を理解しようとすれば、創作者の諸権利の保護と公正使用の付与およ びその他の公共的諸権利に関して、著作権法の意義についての分裂した見通しを生み出す 。諸利益の相互関係や比較考量については幅の広い多種多様な視点があり得るが、ふたつ の両極の見解がしばしば議論を支配している。ひとつのグループはしばしば情報のデジタ ル化、蓄積、そして検索のために最大限の利用権を主張する立場であり、それらの見通し は新しい技術を配備し、デジタル図書館を実施することができる能力についての諸制限を 受け入れる圧力と戦っている。反対の見通しからは、著作権のある著作物に対する厳格な 保護の支持者たちは、公正使用の現実と折り合いをつけ、公衆に帰属する諸権利を確認し 、受け入れることを余儀なくされる。理想的な状況においてさえ、これら2つの利益を何 らかの形で和解させることは、しばしば著作権保有者に対して完全な諸権利を保全するこ と、ないしはデジタル図書館の最大限の可能性のための環境を与えるという目標に対する 反抗的な挑戦となる。
さらに、デジタル図書館は当然技術革新と科学的可能性の進歩に根をもっている。稀に は、新しい技術上の進歩を生み出した技術者やデザイナーたちは、そのソフトウェアもし くはハードウェアを著作権法と衝突するかもしれない方法で備えつけるかもしれないとの 心配のため、彼らは幾分その創意工夫を禁じなければならないという感覚をもってデジタ ル図書館を追求している。結局、一連の技術は我々の高度化する情報システムのための魅 惑的な可能性のすべてとともに前進する。
アメリカ著作権法の一般的パラダイムは、その守備範囲を広く拡大しつつあるが、特定 の場合侵害なく公衆が著作権ある資料を利用することを認める一連の制限ないしは適用除 外でもって、その守備範囲を削減しつつあるということである。著作権の守備範囲の大変 な広さは、まずはおそらく現在著作権の保護に服する資料の広さによって見られるかもし れない。著作権法は2つの要件を満たす資料を対象としている。それらは著作者の創作性 のある著作物でなくてはならず、何らかの有形のメディアに表現が固定されていなければ ならない。著作権法が対象とする資料の範囲は、文書、写真、彫刻、コンピュータ・プロ グラム、音楽、およびデジタル化されたテキスト、イメージ、ないし音を含んでいる。
近年にいたってようやくアメリカ法は、著作権保護を確保するために行っていた著作物 に形式的手続きとして著作権表示を付すこと、または一個の連邦行政機関、すなわち合衆 国著作権局にその著作物を登録することを過去のものとした。世界中の他の大半の国々か らすれば、それらの形式的手続きの要件をはずすのが遅かった。アメリカの観点からすれ ば、著作権を主張する必要性から自動的保護への移行は、我々の財産権に対する文化的な 期待と法的な期待の両方における非常に重要ではあるが微妙な対立の源であった。この自 動的保護への変化は、個人的な手紙、家族の写真、一時的な資料、さらには多くの刊行物 など、以前の法律に対するいまや著作権のもとにかつてはまま保護の対象とは考えられな かった広い範囲の資料を取り込む根本的な変革である。
著作権保護の要件として形式的手続きを排したことは、アメリカの多くの学者、研究者 、および図書館員にとって、にわかに順応することが困難であった。彼らがいま伝統的図 書館において、そして電子的領域において容易にアクセスできる資料の実質的にすべてが 、事実上、著作権により保護されているということを知って、ショックとはいわないまで も、驚きを禁じえないのである。自由なアクセスと公有に属するということのバランスが 崩れれば、アメリカ社会の多くの構成員にとって、情報活用の手順を認識し統合すること は困難となる。
ある著作物が著作権により保護されるものだと考えられた場合、著作権の賦与は著作権 者に完全なひとくみの“排他的権利”が与えられる。
1 当該著作物を複製物に複製する権利
2 それらの複製物を公衆に頒布する権利
3 派生的著作物を作成する権利
4 特定の著作物を公的に展示する権利、および
5 特定の著作物を公的に実演する権利
しかしながら、そのような一連の権利が賦与されると、法はついでそれらの諸権利に対 して多くの“制限”を生み出す方向に進む。それら諸々の制限の中でもっともよく知られ ているものが、公正使用の権利である。公正使用およびその他の多様な諸権利は、デジタ ル図書館の成功にとって、必須不可欠である。
アメリカにおける公正使用の意義をもっともよく語っている事例は1994年に合衆国連邦 最高裁判所が下した判決で、それはデジタル図書館に対して直接言及するところはほとん どないが、現在の公正利用法理の位置づけと一般的な意味でのその概念上の逆転回につい て大変よく明らかにしている。その判決は、“プレティ・ウーマン”事件として、あるい はもっと公式の呼び方をすればキャンベル対アカフ−ローズ・ミュージック事件(Campbell v. Acuff-Rose Music)として知られている。その判決の説くところによれば、よく知 られた曲である“オー,プレティ・ウーマン”(Oh, Pretty Woman)は、1960年代中頃、 歌手のロイ・オービソン(Roy Orbison)が書き、録音された。それから25年以上たってか ら、“2 Live Crew”というラップ・ミュージック・グループがその曲をアレンジして録 音したが、演奏方法や歌詞に変更を加え、それが元の曲を尊重しほめるという方向ではな かった。
元の曲は、一般に、彼の前を通りすぎ、振り返って彼に流し目をくれる可愛い女性につ いて妄想する一人の孤独な男性のロマンチックな関心事を反映したバラードだと理解され ている。2 Live Crewの曲は、元の曲と同じような価値や同じようなロマンチックな見方 をほとんど反映していないロマンチックな関係についての感情を表現したラップ・ソング である。実際、かなりの程度女性一般に関する敵意にみちた言葉を呼び起こすかもしれな い内容をもたせるために相当歌詞を書き換えている。新しくアレンジされた曲はラップ・ ミュージックの形に演奏されるだけでなく、また元の曲とそれが表現している社会的価値 の両方のパロディとして広く理解されている。元の曲の著作権者たちは新しくアレンジさ れた曲に異議を申し立て、2 Live Crewを著作権侵害で訴えた。1994年、合衆国連邦最高 裁判所は、パロディ版の曲は元の曲に対して公正使用にあたり、元の曲の著作権者の許可 を得ることなく、また何らの使用料を支払うことなく、レコードをつくり販売することが できる、と判示した。当該裁判所はどのように考えてこのような結論に到達したのであろ うか。連邦最高裁は、ある行為が公正使用にあたるかあたらないかというあらゆる問題を 考えるにあたって評価しなければならないと公正使用の法規定が定めている4つの要因を 適用することによって、そのような結論を導き出したのである。それらの要因というのは 、次にあげる通りである。
1. 当該利用の目的ないし特質
2. 著作権ある作品が利用される場合の特徴
3. 当該作品が利用される場合の量と実質性、および
4. 原作品の市場もしくは価値に対する当該利用行為の影響
ポピュラー・ソングをパロディに仕立てたラップ・ミュージックのような一見ありそう もない行為に対してこの著作権法が適用される一方、また著作権法はこれまで図書館間相 互貸出のための論文の複製の作成、図書館の保存作業のための複製の作成、マルチメディ ア著作物の創作のために行うデジタル資料のカット・アンド・ペースト、遠隔学習を行お うとする際のディスプレイ上の実演の伝送、およびインターネット上のサイトにおける著 作権が保護された種々の資料の組み合わせなどの行為を容認するためにも用いられてきた 。図書館サービス、学術活動、教育、ならびに研究開発といった文脈において、公正使用 に関する現実の法的定義について、私たちは驚くべきことにほとんど知らない。公正使用 という概念は、多種多様な行為を正当化するため、もしくは正当化させないために、ほと んどすべての考えられる状況に対して論拠とされる。しかるに、実際のところ、公正使用 についてしばしば問題とされる通常の行為で、アメリカのあらゆるところで何らかの司法 判断に服さなかったものは事実上何もない。結果として、デジタル図書館にとっての公正 使用の意義については、なお広汎かつ多くの機会を利した活発な論議を必要とする問題で ある。
公正使用を解釈するうえで何らかの関係があるわずかな事件を検討すると、以下の多分 に単純化されすぎているかもしれないが、一般的命題を得ることができる。
公正使用に関する広汎で柔軟な一般的命題に加えて、アメリカ著作権法は図書館機能に 関しさらにいくつかの重要な諸規定を含んでいる。
全体として、アメリカ著作権法のこれらの諸規定は、重要な利用にかかる諸権利が公正 使用の法理の一般的命題の外側に法律の中に具体化されていることを示しているばかりで はなく、利用に関する諸権利の範囲が連邦議会による検討や改正に服するということをあ らわしている。これらの諸規定が1976年著作権法の通過成立から数年を経ずして追加され 変更されているように、私たちは、著作権法とデジタル図書館サービスの間の軋轢が大き なものとなるにつれて、他の法改正がやがて実現するであろうことを確信できる。
一番最初のガイドラインがいわゆる“クラスルーム・ガイドライン”といわれるもので 、几帳面で正確な文言で、教師が学生に配布するコピーしうる資料の分量について定めた 。いまひとつの初期のガイドラインは教師が教育目的のために複製しうる印刷され録音さ れた音楽の分量について詳細な定めをおいた。1976年法の成立後数年にわたり、関係者が 交渉し、テレビ放送から録画されたビデオテープの利用に関するガイドラインができ、そ の後の交渉で教室で使用されるビデオテープの利用のためのガイドラインができた。4番 目のガイドラインは、著作権法 108条の定めにしたがって、図書館間相互貸出サービスに 関連して、デリバリーのために学術雑誌掲載の論文のコピー作成の制限についての詳細を 規定した。図書館間相互貸出(ILL)ガイドラインは、CONTUと呼ばれるグループ により作成され公表された“CONTUガイドライン”として知られている。CONTU というのは、新技術を応用した著作権ある著作物の利用に関する委員会(the Commition on Technological Uses of Copyrighted Works)のことである。“CONTUガイドライ ン”以外の3つのガイドラインは、対照的に、教育者、図書館員、出版者、著者、および その他の私的な利害関係者の間での交渉の結果生まれたものであった。
上記の4つのガイドラインの作成後、多年にわたってそれらは適切かどうか、実行可能 かどうかについて多くの議論が戦わされてきた。ILLガイドライン、すなわちCONT Uガイドラインについては、図書館での実際的効果に関し一連のかなり多くの検討が行わ れてきた。クラスルーム・ガイドラインは若干の裁判事件で言及されたが、裁判所の支持 するところとはならず、法の一部を構成するものとはされなかった。事実、少なくともひ とつの判決は、クラスルーム・ガイドラインのひとつの主要な要素に対して重大な疑問を 投げかけた。さらに、クラスルーム・ガイドラインは、とりわけその非現実的な制限と公 正使用についての素直な解釈からすれば疑問の多い点について、厳しく批判的な攻撃を受 けた。
これまでのガイドラインの欠陥にもかかわらず、デジタル化にともなう諸問題を対象と する新たなガイドラインを求めるいくつかの方面からの圧力が公正使用に関する会議(th e Conference on Fair Use)、すなわち“Confu”として知られる現在展開されている努 力につながる。Confuは、過去に行われたいくつかの交渉と同じように、公正使用の適用 とガイドラインに関する何らかの決定の結果に利害関係をもつ私的当事者の会合にほかな らない。Confuの交渉に携わっている多数の当事者の中には、教育分野や図書館を代表す る主要な組織ばかりでなく、多くの著作権産業の代表も含まれてている。ほぼ2年半にお よぶ交渉と討議がなされてから、1996年12月に3つの大きな分野、すなわち教育目的から のデジタル化された視覚イメージの創作、教育のためのマルチメディア・プロジェクトの 開発、および遠隔教育における著作物の伝送の3分野についての公正使用ガイドラインの 提案を含む中間報告が公表された。微妙できわどい性格をもつこの問題に取り組んだわけ であるが、Confuの参加者たちはそこでもっとも重要だと認識された分野のうち2つの分 野、つまり図書館間相互貸出の名目での資料のデジタル伝送、そして教育的目的から選ば れた文献を具体化した電子的情報蓄積システムの創設という2つの分野に関して何のコン センサスにも到達できなかった。
1996年12月の報告書は、関係当事者に対して、提案されたガイドラインを支持するつも りでいるか、支持しないつもりでいるかについて態度表明を促したものであった。この報 告書について、疑いもなくひとつの傾向が見てとれる。教育機関や図書館を代表する主要 な全国的組織のほとんどは、提案された3つのガイドラインのすべてに反対した。いくつ かの図書館や教育団体が、遠隔学習のガイドラインを支持した。小規模もしくは専門的な 教育組織の中には、マルチメディア・ガイドラインを支持するものがあった。商業出版に 関する団体は、一般に、マルチメディア・ガイドラインを支持したが、他の2つのガイド ラインに関してはまだ態度を明らかにしなかった。現在のところ、2つのことだけが結論 としてあげても問題がないように思われる。その第一は、デジタル・メディアへのその適 用に関して公正使用の解釈をめぐって、力強いコンセンサスは全く出来あがっていないと いうことである。第二は、主要な教育団体や図書館組織は、特にこれらのガイドラインに は反対している。
しかるに、本稿のひとつのテーマは、公正使用法理がデジタル図書館の成長にとって決 定的であるということにある。また、公正使用概念は、内容の不安定な公正使用に関係す る諸問題を回避する助けとなる条件にしたがった資料の上手な使用許諾にとってもきわめ て重要である。主要な図書館組織や教育団体が提案された公正使用ガイドラインに反対し ているということは、アメリカ法における公正使用概念独特の皮肉のひとつを示している 。その不確かな性質は解決されないかもしれないが、その明確な定義に欠けるところは、 事実上、当該法理の力強さと重要性の源泉となっている。公正使用概念の不確かさは、現 実に、図書館サービスに関連して、デジタル化された資料を用いての実験を行うにあたっ て多分に決定的である。公正使用概念に明確な定義が存在しないということは、デジタル 図書館の推進者たちが自由に当該法理の適用と意義を検証することができ、技術と図書館 サービスの高度化に資する定義を見いだすために多様な解釈をしながら実験できることを 意味しており、また図書館とその利用者たち、そしてプロテクトのかかったコンテンツの プロバイダーとの間に展開する関係につき、どこまで認めることができるかを見極めるこ ともできる。
広く行われている使用許諾の確立に対する根本的な障害のひとつは、にわかに増加した 使用許諾にあたっての異なる多種多様な条件である。アメリカ著作権法のもとでは、各々 の著作権者が使用許諾の条件を画定するときの最初の条件提示をする権限をもっている。 したがって、著作権者はそれぞれ他の著作権保有者が求める使用許諾条件との関係をほと んど考慮することなく、自由にまったく別個の条件を提示し、それに固執してもかまわな い。
アメリカでは、他の国と比較すれば、2つの理由から著作権ある著作物の共同的使用許 諾の余地がほとんどない。第一に、アメリカは個々独立して財産所有し管理するという伝 統があり、それぞれの財産所有者は、当該財産の管理・運用・処分に関し、自由に自らの 条件を宣言しうる。第二に、アメリカにはまた、競合する当事者に対して、同一の市場に おいて事業を行う場合、条件、期限、ないしは価格について協定を結ぶことを禁止してい るかなり効果的な一連の反トラスト法が存在する。その結果として、著作権者たちは互い に同一の条件もしくは同一の価格で自らのソフトウェア、テキスト情報、あるいはその他 の資料を使用許諾契約を締結できないのである。
テキスト情報の電子コピーおよび何らかのデジタル化をともなう複製の使用許諾につい ては、アメリカにも、世界中の多くの諸国に設けられている様々な“複製権管理機構”に 相当するものとして、著作権料清算センター(Copyright Clearance Center: CCC)がある 。CCCは、多数の異なる出版社から 200万点にのぼる出版物に関して、集中的権利処理 機関として活動している。もっとも、CCCは、権利を賦与し料金を明確にする当事者を 確認する手続きを容易にするため、多分に集中処理機関として機能しているけれども、条 件ないし価格といった一般的側面な事柄を決定したりできないし、それらにつきそのメン バーである著作権者と議論することさえ許されていない。首尾一貫した価格付けまたは条 件の作成を促進しようとするあらゆる努力は、すぐさま連邦反トラスト法の侵害行為と解 釈されかねない。
上に述べたところと対照的に、アメリカには、音楽に関する実演の諸権利のための共同 使用許諾機関がいくつか存在する。それらの主要な組織に属するもののうちの2つが、放 送音楽協会(Broadcast Music, Inc.: BMI)とアメリカ作曲家・著作者・出版社協会(Am erican Society of Composers, Authors and Publishers: ASCAP)である。ASCAPと BMIはまさに多数の作曲家に代わって使用許諾機関として活動し、使用許諾のための比 較的首尾一貫した条件と価格を決定することができる。これらの組織が1930年代に最初に そのような使用許諾業務に従事したとき、即座に反トラスト法の侵害行為のかどで訴えら れた。彼らは、その標準的な使用許諾条件は市場において楽曲の効果的な使用許諾につい て競争を禁止しようとする趣旨のものではないと主張するために、結局裁判所の監督に同 意することによりそれらの事件を解決した。このような裁判所の監督はCCCを通じて印 刷資料やデジタル資料の標準的使用許諾運営の可能性を示しているが、著作権料清算セン ターは多くの理由からこのような活動をしようとしないことは明らかである。それらの理 由のひとつは、結果が不確かなあらゆる訴訟に法外な出費がかさむことが見込まれるとい うことである。
以上述べてきたところから、大規模な共同使用許諾がデジタル図書館の実現を容易にし 、実際に大きく推進するものと思われるが、アメリカ法のもとで、共同使用許諾は近い将 来実現する可能性はありそうもない。したがって、デジタル図書館を作ろうとする人々は 、公正使用法理およびその他の制定法により確立された利用権の範囲内で許容されうる機 会を確認するために著作権法の解釈に再度立ち返らなければならない。
それでもハーモナイゼーションの圧力とそのアメリカ法への影響は、多くの点で明らか である。アメリカ法の最近のもっとも大きな変化として、アメリカのベルヌ条約加入によ るハーモナイゼーションとその決定の直接的結果があげられる。ここでの変化は、著作権 を確保するためのいわゆる方式主義を排したことである。本稿の最初の方で書いた通り、 近年にいたるまで、アメリカは、公刊された著作物は登録を求められ、また著作権保護を 確保するためには著作権表示を付すことを要求されていた。そのような方式主義にのっと った手続きをしていなければ、新たな著作物の創作者はすべての保護を失い、当該著作物 を公有に属するものとする危険性があったのである。漸進的にアメリカ法はその2つの形 式的法手続きをはずし、ついに1989年にはベルヌ条約加入の要件に一致させるために完全 に方式主義を排することによりアメリカ著作権法は関係手続きを終えた。
しかしながら、世界中の他の多くのベルヌ条約加盟国は、アメリカを厳しく非難してい る。というのは、わがアメリカは長らく維持してきた伝統的法原則を抜本的に変更するこ とを躊躇し、現行法はなお著作権の登録と著作権表示を勧めている。たしかに形式的手続 きを完全に欠く著作物に対しても著作権を保有しうるけれども、これまで通りの形式的手 続きを備えれば、重要な実際的な法的利益を享受できる。何らかの訴訟を提起しようとす るときにはその前に著作物を登録しなければならないし、また侵害行為が発生する前に当 該著作物を登録しておけば、著作権侵害訴訟をうまく進行させてゆくうえで著作権者は重 要な付加的救済を受けることができる。とくに現実的損害賠償額の代わりに制定法により 定められた損害賠償額が得られる権利がそうであるし、裁判所に弁護士報酬の弁済を求め ることもできる。実際問題として、その2つの経済的な救済がなければ、訴訟はおそらく その事件の現実の価値よりもはるかに高額なものとなるであろう。アメリカで著作権を保 有することができるとしても、登録しなければ著作権は法的に主張する価値をもちえない 。
ハーモナイゼーションという名目で実施されたいまひとつの主要な変化は、アメリカに おける著作権保護の存続期間の変更で、公刊され登録された著作物については、もとは28 年間の保護期間であったが、改正後さらに28年が付け加わった。アメリカにおけるほとん どの著作物の保護期間は、今日、世界中の他の多くの国々と同様で、著者の生存期間に50 年が加わる。そのような著作権の存続期間の定式化は、“財産上の主張”としての著作権 から人格権的な、おそらく自然権的なものとしての著作権へと着実に移行していることを 反映している。
また、ハーモナイゼーションは、重要ではあるにしてもあまり目立たない点で、アメリ カ法を形作りつつある。アメリカ著作権法の憲法的基礎が複雑な性格をもつために、密輸 された演奏を録音したレコードはあらゆる著作権保護を受けられず、その作曲家や実演家 には、音楽演奏を録音テープにとりその複製を販売する者に対して弱い法的対抗措置しか 与えられない。今日、アメリカでは、録音物の密輸は違法であるが、著作権侵害にはあた らない。その旨を定めた法律は、連邦議会により、通商を規律するより一般的な権限の行 使として制定された。
ハーモナイゼーションへの努力は続けられており、著作権保護の社会的意味や連邦議会 における可能な制定法の諸規定に関する議論が問われ続けている。世界の国々のなかには 、著作権保護の存続期間を著者の生存期間および死後50年間から著者の生存期間および死 後70年間に延長しているところがある。連邦議会において、より長い著作権保護期間を定 める改正法案が上程されようとした。幸運なことに、社会の多くの人々や連邦議会の多数 の議員たちは、著作権の存続期間の延長は、知識と学問の進歩に深刻な悪影響を及ぼすこ とを理解していた。著作権の存続期間の延長はアメリカ法を他の国々の法と調和させると いう名目で推進されるかもしれないが、少数の著作権者の収入拡大に向けての積極的動き 以上のものではなく、全く保護されるべきではない広範囲の資料にさらに20年間の厳しい 利用制限を課すことになる。
ハーモナイゼーションに関する議論が生み出す力は、直観的な論理と皮相的なアピール に結びつくところがある。それは、ハーモナイゼーションに関する議論は、アメリカがそ れに従って法律を改正することを余儀なくする内容をもつ国際的な条約に対して、アメリ カの利益から逆に国際的な条約の改正を促すという具合にも用いられてきたところにもう かがえる。たとえば、アメリカ著作権法の基本的な原理は、事実やデータには著作権保護 は適用されないということである。データ資源の主要なプロデューサとディストリビュー タの中には、連邦議会に対して、著作権が与えることができる範囲を超えて、データベー スを保護する sui generis規定をおく著作権法とは別の法律を制定するよう求めたものが ある。そのような保護を主張した者たちは、連邦議会に対し立法を働きかけたが成功しな かった。失敗ということになり、1996年12月、データベース保護をアメリカが一方の当事 者である国際条約に盛り込むことを狙って、彼らはその提案を世界知的所有権機関(WI PO)に持ち出した。その期待したところは、もしデータベース保護が条約の要件として いれられれば、たとえ以前にその価値を検討した結果法制化に難色を示したとしても、連 邦議会はハーモナイゼーションの名のもとにそれに対応する法律を制定せざるをえなくな るだろうというものであった。幸運にも、1996年末にWIPO交渉に参加した世界の諸国 はデータベース保護を多国間条約の中に盛り込む努力を拒絶した。